第112回
現代人類学研究会<つくること・あらわすことーーインゴルド『メイキング』再考>
【日時】 2018年4月15日(日曜日) 14:00~18:00(終了後に懇親会を開催予定)
【場所】東京大学駒場キャンパス14号館407教室
(地図:http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_13_j.html)
*エントランスカードをお持ちでない方は、テニスコート側の外階段より4階までお越しください。
【登壇者】
文献紹介:物井愛子(東京大学大学院)
発表者:丹羽朋子(人間文化研究機構総合人間文化研究推進センター)
発表者:藤田周(東京大学大学院)
発表者:兼松芽永
発表者:登久希子 (国立民族学博物館)
コメンテーター:山越 英嗣(早稲田大学人間総合研究センター)
【タイムスケジュール】
14:00~14:30 物井文献紹介(物井)
14:30~15:00 丹羽発表
15:00~15:30 藤田発表
15:30~15:40 休憩
15:40~16:10 兼松発表
16:10~16:40 登発表
16:40~16:50 休憩
16:50~17:00 山越コメント
17:00~17:30 ディスカッション
【研究会要旨】
文化人類学者のティム・インゴルドは『メイキング』(2017)において、ものをつくることを頭の中で思い浮かべたデザインを素材に押し付けることとしてではなく、素材や環境が展開させている力の関係に、つくり手が自らの力を添わせていくこととして捉える。この考え方は、実際にものづくりに携わる人々に話を聞き、様子を見る限り、その人々の感覚にかなり「合っている」ように思われる。
さて、つくることと不可分に結ばれているのが「あらわす(現す、表す、顕す、著す)こと」だ。つくることにおいて、ものが形をとって在るようになり、そして様々なあり方で人の前に姿を見せる。それは、つくられるものが、変わる、消える、見られない可能性と不可分だということでもある。他方で、つくる過程は、人々が、また研究者が、記録を残そうとするものであり、その記録はまたつくることの手引きともなる。
本企画においては、「同時代のアート」の現場に寄り添う4人の研究者の発表を通して、つくることとあらわすことが織りなす複雑な関係に焦点を当て、『メイキング』が持つ豊穣さと限界を検討する。
【発表要旨】
丹羽朋子「「探求の技術」を手探りする人類学的「実験場」をつくるーー「映像のフィールドワーク・ラボ」の試みから」
本発表では、「せたがや文化財団 生活工房」主催で、発表者が造形作家の下中菜穂氏や同館の学芸員、多様な参加者たちと協働して進めている、上映・制作表現ワークショップ「映像のフィールドワーク・ラボ」を取り上げる。この試みは、1950‐80年代ドイツを中心とする科学映像収集運動を通じて構築された学術映像アーカイブ「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」(通称「EC」)の活用プロジェクトの一環であり、ワークショップ参加者たちはテーマごとに選ばれた複数地域の民族学や生物学の記録映像を過剰な説明を介さずに「観察」し、そこで使われている植物等の素材や道具、身振り等に自らの身体を応答させながら、画面の向こう側にいる古今東西の人間や動物の生の営みを「見よう見まね」することで、映像のより深い理解や新たな発見を体験していく。
インゴルドは「自らの手で行う」を旨とする「実験」授業の経験から、人や事物を観察し、物質や諸力の流れに応答(コレスポンド)する「探究の技術」のなかに、人類学とアートの協働の可能性を見出した(第1・2章)。『メイキング』では「人類学」はこうした「内側から知る」学びの過程で生成変化をもたらすこととされ、「民族誌的資料」との区別が対立的に論じられる。これに対して「映像のフィールドワーク・ラボ」は、研究者が客観的記録データとして残したECを、インゴルドの「実験」授業にも似た手探りの「探求の技術」をもって読み直し、語り直す実践であるという点で、同書のいう「民族誌的資料」と「人類学的生成変化」とを架橋・往還し、再融合するような試みととらえられる。本発表ではさらに、時空間を異にする他者の営みを身体でなぞる経験を通じて、参加者たちによる個人的、文化的記憶の想起がみられたことに注目し、記憶メディアとしての身体という観点も交えて、「人類学的生成変化」及びその記録の問題について考えてみたい。
藤田周「おいしさをつくること:日本のモダンガストロノミーレストランにおける調理過程から」
本論文は、ものをつくる過程を力の絡み合いとして理解するインゴルドの議論を踏襲しつつ、ものの知覚が制作過程に不可欠でありつつ物質的・時間的効果を持つ実践でもあることに着目し、ものをつくる過程に知覚がどのように織り込まれるのか問うものである。
この問いを検討するために、本発表では日本のモダンガストロノミーレストランでの調理過程を事例として扱う。調理において追求されるものである「おいしさ」は、味、温度など、ものの表面には必ずしも反映されることがなく、また調理の中で刻一刻と変化していく性質をも含む。もしこれらを常に直接的に知覚しようすれば、時として、調理の妨げとなったり、調理されているものの自体の美味しさを損なったりしてしまう。こうした特徴を持つ調理という過程において、料理人がどのように調理中のものを知覚しているのか明らかにし、知覚の技法と、知覚という実践がものをつくる過程にどのように影響しているのか明らかにする。
兼松芽永「「生きている作品」になるときーー「大地の芸術祭」恒久設置作品にみるマウンドとモニュメント化」
「すべての作品は、いまだかつて真の意味で『完成した』ことはなく、生き続けている」(p198)。インゴルドは、アーティストの企図が投影された結果として芸術作品を捉え、エージェンシーに因果を担わせるジェルの議論を批判し、こう述べる。生きている作品は「対象」ではなく、持続する複数の存在の交感・照応(コレスポンダンス)を生む「もの」だという(p221-2)。確かに、場を構成する様々な存在への応答と交感を重視する、サイトスペシフィックな作品や、変化のプロセスに焦点を置く作品の多い大地の芸術祭を考える上で、彼の捉え方はひとつの手がかりとなる。一方、エージェンシー論や ANT の前提を批判し「もの」の持続性を打ち出すため、本書では「もの/対象」「マウンド/モニュメント」を対比的に描き出すが、作品が生き続けているならば、両者の関係もまた生成変化の過程にあると考えねばならないのではないか。
本発表では、2000 年以降エリア内に多数蓄積されている恒久設置作品の中から、時と共に動きゆくいくつかの事例を取り上げる。中山間地では恒久設置とはいえ、毎年草刈りや雪掘りなどメンテナンスが不可欠であり、維持管理活動は作品や関わる人・諸存在との関係を「つくること」そのものである。諸事情で作品のかたちが変わったりひっそりと撤去されることも少なくない。愛され生かされる作品と対象化されゆく作品、土地勘や経緯を知らなければ生きていることに気づけない作品など複数の事例を通じ、「もの/マウンド」と「対象/モニュメント」の共在や混淆状況、生成変化について検討する。そしてこうした完成されえぬアートプロジェクトは、「応答と探究の技術」=人類学的実践を通じ、どのような表現をつくることができるのだろうか。インゴルドの人類学と民族誌の区別をふまえて考察し、みなさんと議論してみたい。
登久希子「商品/贈与としてのアートを「つくること」から再考する」
アートがつくられるプロセスに着目することでなにが見えてくるのか。本発表では、「制作」過程の分析と贈与論に基づく人類学の芸術研究とを接合することで、「現代アート」の作品をめぐる葛藤の一端を明らかにする。
インゴルドは、ハイデガーを参考にもの(thing)と対象(object)の違いを強調した(第6・7章)。「対象」がそれ自体で完結しているとすると、わたしたちに何らかのはたらきかけをみせるのは「もの」であるという。対象が主体と客体を前提に存在する一方、ものは生成のなかに存在する。現代アートの実践のなかには、参加型のアートや時間による変化が期待される作品など「ものとしての作品」のあり方が可視化されたような試みも目立つ。発表ではまず1968年にニューヨーク近代美術館で開催された「機械」展におけるボイコット事件を取り上げる。芸術作品にかかわる従来的な二項対立-商品か贈与か、譲渡可能か譲渡不可能か-が明確に現れるこの事例について、ものと対象という区別を念頭に争点を再考し、それが「つくること」の経験に起因することを明らかにする。多くのアーティストは、芸術という概念の何らかの基盤ともなり得る重要性をその経験に求めてきた。では協同的な作品づくりを特徴とする昨今の参加型のアートプロジェクトの場合、「つくること」の重要性はどのようにあらわれてくるのだろうか。それは商品/贈与としての作品の議論といかに関わりうるのか。「機械」展における事件と2010年代の実践でみられた葛藤について「贈与」と「もの」の視点から比較、考察したい。