第41回
2006年7月23日
<特集>科学技術から人類学へ
自然・人工物と社会 ~SSCのケーススタディから~
綾部広則(東京大学特任助手)
【発表要旨】
1993年の初秋、科学界に衝撃が走った。アメリカテキサス州の砂漠に東京23区がほぼすっぽりと収まるほどの巨大な加速器を建設し、素粒子物理学の標準理論を検証しようという目的で建設が始まっていた超電導超大型粒子加速器(SSC)計画が、幾多の紆余曲折を経てこの年の10月に議会で正式に打ち切りとなったのだった。それまで建設途中の加速器計画が中止になるという前代未聞の事態であったこともあり、SSC計画がなぜ中止になったかについてはさまざまな理由が指摘された。ところがいずれの指摘もそれだけをもって決定的な理由とすることは困難である。では、SSC計画の中止という事態は一体どうみればよいのか。そしてこの事例から我々はどういった教訓あるいは知見を得ることができるのか。本発表では、これまでの社会科学的分析視角に自然・人工物を取り入れて組み替えることによりSSC計画をみるための一つの観点を提示したい。
【自己紹介】
東京大学にて特任助手をしております綾部広則と申します。専門は、科学社会学ですが、最近では科学技術政策の動向もウォッチしています。今回の発表で取り上げるSSC計画が中止になったのは、ちょうど私が大学院に入った1993年のことでした。それ以降、約10年に亘ってSSC計画はなぜ、どうして中止になったのか(だけ)を追っかけてきました。したがって、一つの観点を提示するとは申しながらも、実際にはまだ個別事例から思いついたアイデアを披露する段階に過ぎません。むしろ皆さんで料理していただければ有難く存じます。
技術と呪術の二分法を越えて
―エンターテインメントロボット「アイボ」の開発と受容の過程から―(仮)
久保明教(大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程)
【発表要旨】
主な研究対象は、現代日本におけるロボット・テクノロジー(RT)です。 2004年から2006年にかけては、エンターテインメント・ロボット「アイボ」の開発過程や所有者(アイボ・オーナー)同士の交流の場を 対象にして調査を行ってきました。現在は、ロボット工学の先端プロジェクトを対象とする実験室研究を計画し準備を行っております。
ロボットを対象としたのは、ロボットとは何なのか誰もよくわかっていないからです。よくわからないにもかかわらず、 SF・マンガ・アニメで数多く描かれ、多額の国家予算を投じてロボット・テクノロジーの発展が目指されいるからです。 ロボットは、単なる科学技術というには文化的な色彩が強く付随しており、単なる文化的イコンというには科学技術史の根幹に関係しています。 ロボットという文化=テクノロジーを対象として、現代社会における科学技術と人々の生活の関係を多角的な深度から探ることを試みています。
【自己紹介】
大阪大学大学院の博士課程に在籍しております、久保明教です。専門は科学技術の人類学です。 主な関心としましては、(科学)技術論、現代記号論、象徴表現論、呪術論、(アクター)ネットワーク論、 認知科学(特に古典的計算主義以降の身体性をめぐる問題系)、レヴィ=ストロース「野生の思考」論の再考、 ユビキタスネットワーク時代における仮想と現実の関係性、20世紀における計算機械の科学的・文化的系譜などです。 現在の理論的課題としては、技術論の視点からポスト言語論的展開期における人類学的方法論の再定位を図ることを試みています。
【編集部感想】
今回は「科学技術から人類学へ」と銘打ち、科学技術という対象へ人類学はいかに関わっていけるのかを、東京大学の綾部広則氏と大阪大学の久保明教氏のご発表、および東京大学の森田敦郎氏のコメントを通して考えました。
綾部氏からは、アメリカのSSC(超伝導大規模粒子加速器)建設計画の中止を、単一の原因に帰すのではなく、複数の行為者・組織・人工物が絡み合う、いわば関係性の全体的布置の変化という観点から捉える議論が提起されました。久保氏からは、アイボの開発と受容の過程を参照しつつ、呪術論の視点から技術を捉えつつ呪術論にも修正を加えていくことで、文化と科学技術を不可分なものとして分析していく議論が提起されました。両発表に対し森田氏からは、科学技術が深くかかわる事象への民族誌的記述がもつ可能性、人類学史における科学技術への注目の存在、などについて指摘がありました。
個人的に振り返れば、巨大かつ複雑なプロジェクトの展開と、技術と人間のミクロかつ哲学的な関係性という、対照的でありつつも、人類学が扱ってきた範囲を超え出る示唆に満ちた発表であったように思います。そのためか、人類学の立場から考察範囲をどのように拡張するのかという問いと、他方で、人類学がもつ強みなるものをどの範囲に確保するのかという問いとのあいだで、参加者は頭を悩ませていたように思われました。しかしそれは、科学技術という対象へ向けられた熟考であるだけでなく、人類学をどのように定位するのかという問題提起でもあったのではないでしょうか。(T)