第39回
【日時】2006年4月29日
ミクロネシア・パラオ社会における屋敷地の現在―埋葬慣行と土地訴訟の分析から―
飯高伸五 (東京都立大学大学院社会科学研究科社会人類学専攻博士課程)
【発表要旨】
本発表ではミクロネシアのパラオ社会において19世紀末から現在まで屋敷地と人々との結びつきがいかに変遷し てきたかを概観したうえで、現代の埋葬慣行と土地訴訟を人々による屋敷地の位置づけとの関連から検討してい く。
植民地統治以前のパラオでは、カブリール(kebliil)と呼ばれる血縁集団が特定の屋敷地と密接に結びついて いた。生きたカブリール成員が世帯を形成する家(blai)と、死んだカブリール成員が埋葬される石畳(odesongel )とは隣接してひとつの屋敷地を形成し、それは固定的・永続的なものと認識されていた。しかし、屋敷地とカ ブリールとの結びつきは19世紀末以降次第に崩れていった。ドイツ統治期以降コプラ生産が奨励されて核家族や 個人単位の財産の観念が形成されたこと、日本統治期の公衆衛生政策によって屋敷地への埋葬が禁止されたこと が、その主たる要因であった。こうして、ほとんどのパラオ人は丘陵地帯にあった屋敷地を離れて、海岸沿いに 集住するようになり、埋葬も日本統治期に普及した公共墓地に行われるようになった。
それでも、こんにちのパラオにおいて人々は屋敷地との関係を維持し、さらには様々な社会的文脈に応じて再構 築している。アメリカ統治期以降、屋敷地への埋葬が再び行われるようになり、現在でも特に地位の高いカブリ ールの成員や首長位称号保持者が死んだ場合には屋敷地への埋葬が好まれる傾向がある。カブリールの成員権が 柔軟なために、死者を母方の屋敷地、父方の屋敷地、公共墓地のいずれに埋葬するのかをめぐって論争が起きる こともある。また、こんにち様々なレベルで頻発している土地訴訟において人々が土地権を主張する場合に、そ の土地と密接に結びついた屋敷地に自分の祖先が埋葬されていることを重要な根拠として持ち出す場合がある。 パラオの屋敷地は人が居住しない遺構となって久しいが、現代でも社会関係の交渉における重要な〈場〉なって いるといえよう。
【自己紹介 】
はじめまして、東京都立大学大学院の博士課程に在籍しております、飯高伸五と申します。専門はオセアニア民族誌学、政治人類学、歴史人類学などです。フィールドはオセアニア、ミクロネシア地域のパラオ共和国で、2002年から2004年にかけて長期のフィールドワークを行いました。
オセアニアを対象に社会人類学を始めたのは、人類学への理論的関心からというより、旧日本統治領だったミクロネシアへの地域的な関心からだったと思います。もともと日本統治下のミクロネシアに関心があり、特に沖縄の南洋移民を対象とした研究をしていました。将来のフィールドワークを見据えた頃に、人類学の先行研究が多かったパラオを戦略的な対象に絞り、植民地統治過程における土着の首長制の変化をテーマとした修士論文を作成しました。
博士課程に入ってパラオでフィールドワークを始めてからも、首長制をテーマとして調査を継続していますが、調査地では人々と屋敷地との関係性の変化を追うことによって、パラオの近代の経験をより具体的に検討できるのではないかと考えるようになりました。今回の発表もそうした関心から行おうと考えています。どうかよろしくお願いいたします。
コメンテーター
深山直子 (東京都立大学大学院社会科学研究科社会人類学専攻博士課程)
福井栄二郎 (日本学術振興会特別研究員-PD、国立民族学博物館)