第100回

投稿日: Oct 28, 2014 7:55:55 AM

「人格、物質、コード」特集

日時・場所

【日時】

2014年11月29日土曜日)14:00開始~17:45終了予定

(終了後、名刺交換・懇親会も予定しております。奮ってご参加ください)

【場所】

東京大学駒場キャンパス14号館407教室

(地図:http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_13_j.html

*エントランスカードをお持ちでない方は、テニスコート側の外階段より4階までお越しください。

【登壇者とタイムテーブル】

    • 中空 萌(日本学術振興会特別研究員PD 京都大学人文科学研究所)

    • 田口 陽子(日本学術振興会特別研究員PD 京都大学人文科学研究所)

    • 深田 淳太郎(一橋大学大学院社会学研究科 特別研究員)

    • コメンテーター:中川理(立教大学異文化コミュニケーション学部 准教授 )

発表概要・要旨

研究会企画

土着の概念(ネイティブコンセプト)から普遍的な(しばしば西洋的な)概念を相対化する営みは、文化人類学の核心のひとつであると同時に、数々の論争を引き起こしてきた。個人や自己、人格にまつわる問題は、その最たるものだと言えるだろう。本研究会では、「分割可能な人格(dividual)」の概念に焦点を当てる。この概念は、アメリカの象徴人類学的な親族研究の枠組み、サブスタンスとコードを創造的に援用しながら、「南アジアの」人格を捉えるために発明された。そこで描かれたのは、食物、性行為、儀礼、日々の会話など他者とのサブスタンス=コードのやり取りを通して流動する人格であった。その後、この枠組みは南アジアの民族社会学においては「土着の概念」の追求をめぐる論争により効果を失う一方、ストラザーンらを通してメラネシア研究に応用され、「メラネシア」と「欧米」を意図的に抽象化した比較を導いた。ストラザーン、ワーグナー、ダニエルによると、サブスタンスのやり取りによって人や環境が構成されるという考え方は、南アジアやメラネシアの実体的な人格や「土着の概念」を示すものではなく、むしろ西洋的な概念と現地のパースペクティブの「間」にある、関係的で問題発見的な概念なのである。

近年、南アジア研究への逆輸入や西洋社会の事例への応用も含めて、様々な分野でサブスタンス(=コード)や「分割性」が注目を集めている。本研究会では、こうした理論的系譜に関わるインドやメラネシアの3つの事例発表を通して、こうした概念が現代社会の問題に再文脈化されるときどのような問題が新たに発見されるのかを考えたい。

中空 萌 「関係的な人格と知識:インド・ウッタラーカンド州における「土着の医療/薬草」のデータベース化と文化的所有権」

南アジアやメラネシアの「分割可能(dividual)な」人格についての研究は、南アジア/メラネシア文化を本質化していると批判されてきた。しかし中でもDanielやRamanujanは、文化をメタフォリックではなくメトニミックなものと捉えることで、境界化された「個人”individual”」と同時に、シンボリックな文化/知識「体系」が存在するという想定自体も批判していた。本発表では彼らの議論を参考に、インド・ウッタラーカンド州において、「土着の薬草(jadi-buti)や治療(jhad-phunk)」についての知識をデータベース化しようとする、現地の科学者/人類学者たちの実践を扱う。このプロジェクトは、グローバルな製薬開発の潮流の中での「知的/文化的所有権」という発想、生物医療と接触していない「前アーユルヴェーダ的な」知識があるという想定、州内のガルワール大学の植物分類学/人類学者の分類学的関心など様々な関心を含みながら、「土着医療の体系」を抽出しようとする。しかし、プロジェクトチームが発する特定の知識の意味や定義(signified)をめぐる問いかけは、当の治療者たちによって環境や経験、効果に関する別のsignifierとのメトニミックな関係にすり替えられていく。こうしたプロジェクトの過程と、州内の大学で始まった、(西洋心理学における「内的自己」とアーユルヴェーダの「自然環境や社会環境との関係の中で流動する人格」が接触する場としての)「アーユルヴェーダ精神療法」の事例を比較しながら、「境界化された深遠なる自己/知識」という想定との対比/接触の中で生起する関係的な人格と知識を捉える視点を考えたい。

田口 陽子 「人格への働きかけ:インド都市部におけるギーター、心理測定、市民」

近年のインドの都市部では「市民社会」の活動が注目を集めている。市民活動家の調査からは、人々の人格への強い関心と働きかけが特徴として浮かび上がる。本発表は、南アジアの人格論を参考に、サブスタンス、コード、人格のかかわりを考察する。

南アジアの分割可能な(dividual)人格は、食物、性行為、会話、儀礼などを通した「サブスタンス=コード(ダートゥ=ダルマ)」のやり取りから形成されるものだとされたが、メラネシア研究を経由したのち、コードはサブスタンスに内在するという前提の下ことさら言及されなくなっていった。しかし本発表では、この収まりの悪い「=コード」を改めて検討してみたい。それは、概念の翻訳過程においてコード、ダルマ、モラリティという言葉のずれが生じているからであり、またサブスタンスとコードの関係性にさまざまな形態があるからである。

人格の向上を目指すインドの市民たちは、モラリティをサブスタンスとして可視化・数値化し、適切なサブスタンスを通して自らの人格に働きかける。本発表では、『バガヴァッド・ギーター』のような「宗教」や「心理測定」のような「科学」といった、さまざまな適切さの基準に基づいたサブスタンスの扱いから、現代インドの都市における人格の在り方を検討する。

深田 淳太郎 「有限の戦没者と無限の遺骨:ソロモン諸島ガダルカナル島における遺骨収容活動を事例に」

第二次大戦において海外で戦没した日本人は240万人にのぼる。戦後、実施された遺骨 収容事業によって帰還したのは、2013年時点でおよそ半分の127万柱で、残りの113万柱は 海外に残されたままである。

だが、この240万-127万=113万という間違いようがなさそうな単純な計算は、実は間 違っている。仮に113万柱を収容しても、戦没者全員が帰還することにはならないのであ る。というのも「遺骨一柱=戦没者一人」という前提が、遺骨収容の実態を必ずしも反映 していないからである。戦後69年が経過し、発掘される遺骨は土に還る寸前であったり、 大雨で流されて散り散りになっていたりと、人間一人分がまとまって出ることは多くない。 現場では出来る限り丁寧に柱数をカウントするが、それはあくまでも「柱」数であって、 戦没者何「人」と等置できるものではない。

そのため現場で活動に携わる人々は「○柱」と発見できた遺骨だけが大切なのではなく、 柱数としては計上されない骨片、あるいは発見されることすらなく朽ちていった遺骨まで 含めて、この土地で亡くなった「戦没者全体」の慰霊が大切であると言う。

このように遺骨収容活動は、残された戦没者を0「人」にすることを目指し、活動の成 果は「柱」数で計上され、同時に「戦没者全体」が慰霊の対象とされる。これらの単位の 揺れ動きの中で、死者はいったいどのような形で捉えられ、働きかけられる対象となるの だろうか?ソロモン諸島ガダルカナル島における遺骨収容活動の事例から考えてみたい。