第110回

スポーツ人類学の新しい展開は可能か―規約・実践論を素材として―

開催概要

【日時】日時: 2016年3月5日(日曜日) 14:30~18:00

【場所】東京大学駒場キャンパス14号館407教室

(地図:http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_13_j.html

*エントランスカードをお持ちでない方は、テニスコート側の外階段より4階までお越しください。

【登壇者】

  • 小木曽航平(早稲田大学)

        • 「球技の比較民族誌--ペロタ・ミシュテカとそのスポーツ的特徴」

  • 相原健志(慶應義塾大学等非常勤講師)

      • 「規則と具体的行為のあいだに--規約の条件をめぐって」

  • 中嶋哲也(茨城大学)

      • 「問題共同体と実践の生成--古流剣術・新陰流の稽古法に着目して」

  • 久保明教 (一橋大学大学院社会学研究科)

        • 「盤上盤外強さの弱さ: 将棋ソフトによって相対化される現代将棋」(仮)

【タイムスケジュール】

    • 14:30~14:35 主旨説明

    • 14:35~15:05 小木曽発表

    • 15:05~15:35 相原発表

    • 15:35~15:45 休憩

    • 15:45~16:15 中嶋発表

    • 16:15~16:45 久保発表

    • 16:45~16:55 休憩

    • 16:55~17:20 パネルディスカッション

    • 17:20~18:00 全体ディスカッション

研究会概要

スポーツ人類学が学問として成立する契機となったのは、K. BlanchardとA.CheskaがThe Anthropology of Sport: An Introductionを上梓した1985年、またこれを大林太良と寒川恒夫が『スポーツ人類学入門』として翻訳出版した1987年である。翌年、日本体育学会にスポーツ人類学専門分科会が設置され、その10年後の1998年には日本スポーツ人類学会が創設された。また、2009年には中国、韓国、台湾、日本の会員から成る国際学会「アジアスポーツ人類学会(亜州体育人類学会)」が設立され、2年に1度、大会が開催されている。

スポーツ人類学は、子供や大人の遊び、舞踊、武術、養生法など、つまりは日常的にスポーツと呼ばれるものから、より広い意味での身体文化までを幅広く扱う。その中には、近代以降に成立した、多くの人がすぐに想像するであろうスポーツ--「近代スポーツ」--や、オリンピックで実施される「国際スポーツ(IOCスポーツ)」なども含まれる。とはいえ、これまでのスポーツ人類学では、どちらかといえば、特定の民族などが行う非近代的なスポーツ・身体文化--「民族スポーツ」や「民族(民俗)舞踊」--などを積極的に扱い、各地の身体技法の事例収集やその社会的機能、象徴的意味の理解に集中してきたと言える。

しかし、スポーツ人類学が日本に根を下ろして30年が過ぎようとする今、その基本概念、理論、方法の反省が求められている。例えば、長らくスポーツ人類学を支えてきた「民族スポーツ」という概念は今日、それが分析的に機能する局面を終え、それ自体が問題である局面へ移行してきている。というのも、民族スポーツの研究によって近代スポーツを批判的に相対化するという目論見自体が、そもそも常に民族スポーツという概念自体に揺らぎを与えるからだ。

スポーツ人類学の内部の問題意識はさらに、スポーツの人文社会科学一般において、スポーツが有するとされる政治-社会的価値、あるいは教育的価値を巡って途方も無いほどの議論が繰り返されてきたことと重ね合わせることで、より鮮明となるだろう 。スポーツの価値を巡る論争 は、スポーツそのもの―すなわち、それが例えば「近代的」「民族的」である以前に、人びとがそれを実践するという事象、あるいはそれをプレーすることそれ自体―を内在的に理解しようとする研究態度を損なうだけでなく、もしかしたらスポーツ研究を他の学問分野に比べ閉鎖的にしてしまったのかもしれないのだ。すると、いま求められているのは、スポーツ人類学、ひいてはスポーツの人文社会科学の諸前提を批判的に相対化しつつ、あるいはときにそれから明白に距離を置きながら、スポーツ・身体文化という事象そのものに内在的な研究を行いつつ、スポーツ研究をより開かれたものにする可能性を探ることだと言えるだろう。

以上を踏まえ、本特集では「規約論」を共通テーマに各論者が発表を行う。そもそもスポーツ人類学は、スポーツを扱う学問領域でありながら、とりわけトレーニングやプレーなどの実践についてや、ルールや競技者のあいだで形成される約束事など―これを本特集ではさしあたり「規則」と、あるいはその約束の状態を「規約的」と呼んでおく―について、ほぼ研究蓄積がないに等しい状態だった。他方、規約論あるいは実践論 は文化人類学においてすでに豊富な蓄積が見られる。本特集ではこれを具体的な主題とし、その接点においてスポーツ人類学と文化人類学とのあいだで対話を行っていく。そしてこれをもって、一方では規約論の可能性と限界を検討しつつ、他方でスポーツ人類学がその対象たるスポーツ・身体文化に内在的に、新しい方向へと展開する上で、いかなる課題を有し、いかなる可能性を秘めているのかを議論することを狙いとする。

発表概要

小木曽航平「球技の比較民族誌--ペロタ・ミシュテカとそのスポーツ的特徴」

現在、発表者はメキシコのオアハカ州で発展した「ペロタ・ミシュテカ」という球技を対象に研究を続けている。ペロタ・ミシュテカとは、5kgの革製グローブを片手に装着し、900gほどのゴム製ボールを打ち合う球技である。基本的には、長さ100m、幅11mのコートに1チーム5人ずつの選手たちが対面し、試合を行う。中世のフランスで人気を博した「ジュ・ド・ポーム」の系譜に連なるハンドボール型のスポーツであると考えられる。

研究に着手した途端、このスポーツが従来そう考えられてきたような「民族スポーツ」でも「伝統スポーツ」でも、まして「近代スポーツ」や「国際スポーツ(IOCスポーツ)」などでもないことがわかった。スポーツを「〇〇スポーツ」と分類して分析を行うのはスポーツ人類学の常套手段ではあるが、そのようなスポーツ人類学が依拠してきた基本概念に頼ることなく、これを問題化すればどんなスポーツ像を描くことができるのか。本研究における発表者の関心はここにある。

そうした中、オアハカ人の移住と共に米墨間で行われるようになったペロタ・ミシュテカとその伝播過程に着目した研究や他のメキシコ球技との比較などをこれまで試みてきた。ここ最近は、「ルール」や「用具」に焦点を合わせ、比較民族誌的アプローチなども採用しながら、そのスポーツとしての特徴を明らかにしようとしている。今回の発表ではその成果の一部であるヨーロッパのハンドボール型球技との比較分析の結果を報告したい。

参考文献

小木曽航平(2015)「越境する民族スポーツ : 『ペロタ・ミシュテカ国際トーナメント2015』調査報告」『スポーツ人類學研究』17:11-22

小木曽航平(印刷中)「無形文化遺産に関するスポーツ人類学的研究の可能性: メキシコ先住民伝統スポーツ(「ペロタ・ミシュテカ」)の伝播を事例として」『体育学研究』

相原健志「規則と具体的行為のあいだに--規約の条件をめぐって」

本発表は、「ある具体的な行為をなすことによって規則に従っているとみなす」という規約的実践の定義に、ある条件が前提として孕まれていることを、ポルトガル共和国ポルト市のサッカーチームのトレーニングおよび試合でのプレーを題材として議論する。規約的実践論においては、具体的な行為と規則が、恣意的あるいは必然的なかたちで重合している。規則に従うとは、その規則と不可分に結びついた具体的な行為を実際に行うことに他ならないからだ。サッカーのようなスポーツにおいても、ある戦術―本発表ではこれをプレースタイルと呼ぶ―という規則に従ってプレーすることは重要な要素の一つである。そこで、サッカーチームにおいて選手たちがあるプレースタイルに従って具体的なプレーを行うとはいかなることなのかを、考察する。その分析を通じ、規則と具体的な行為のあいだの必然性を、むしろ一定の条件の下で必然化されたものとして捉え返し、その必然化をもたらす条件が何であるかを問う。そしてこれをもって、スポーツを対象とする人類学が―スポーツの人文社会科学一般に対して、あるいは文化人類学に対して―そのスポーツという事例の具体的な特徴に依拠し、いかなる貢献をなすことができるのかについて、とくに実践と学習をめぐる議論の中に位置付けながら一瞥も行いたい。

中嶋哲也「問題共同体と実践の生成--古流剣術・新陰流の稽古法に着目して」

現代武道には大きく分けて2つの稽古法がある。一つは、各流派、各種目で用いられる技を駆使して自由に攻防しあう試合稽古であり、もう一つは定められた所作を反復することで特定の技を習得する形稽古である。本研究で調査したのは日本の古流剣術の一つ、新陰流の道場であるが、そこでは形稽古が専ら行われている。ただし、新陰流の形稽古は先に示した規約的な実践とは異なる。稽古の詳細は当日発表するが、考察にあたっては日本思想史の源了圓が論じるイデアとしての「型」論をたたき台にしつつ、表題に掲げた"問題共同体"という概念を提示したい。そして、この問題共同体を通じて人類学の実践論について考えてみたい。

久保明教「盤上盤外強さの弱さ: 将棋ソフトによって相対化される現代将棋」(仮)

将棋というゲームには、江戸幕府や新聞各社の支援の下に培われてきた伝統文化としての側面と、誰もがナンバー1を目指して争うことのできる公平かつ熾烈な競技という側面が共存しており、「民族スポーツ」とも「近代スポーツ」とも言い切れない、両者が奇妙に混じり合った実践が現代まで継承されてきた。人間将棋で有名な山形県天童市の桜祭りでは将棋駒の供養祭が行われ、将棋連盟は2012年に十段位を徳川家康に推戴している。名人という偶像の魅力は漫画『ハチワンダイバー』や『三月のライオン』のヒットが示すように未だ健在である一方、プロ将棋の情報戦は苛烈を極め、戦略も戦術も月単位でアップデートされている。本発表では、日本人なら誰もが知っているようで知らない将棋の世界を概説した上で、将棋ソフトの台頭を通じて「強さ」を軸とした文化と競技の結合が不安定化してきた近年のプロセスを、将棋をめぐる規約(論)と実践(論)を付きあわせながら検討し、私たちが「スポーツ」や「文化」と呼ぶものを支える暗黙の前提領域を抉りだすことを試みる。