第60回

2009年6月13日

特集:「身体‐自己の人類学」

【研究会趣旨】

自己とは何か。従来の人類学的研究は、「西欧・近代」社会の想定する身体から切り離された 精神、他者から独立して自己決定を行うエージェントとしての主体を相対化しようと試みてきた。 個人もまた関係性において把握され、他者との間に真に明確な境界は存在しないことを、人類 学は他社会の事例から証明しようとしてきたのである。特に人類学の身体論は、近代的個人の 思想においては自己の支配下にあるとみなされる身体もまた、周囲の状況や関係性、あるいは より大きな枠組としての「社会」の影響下にあって動作していることを明らかにしてきた。 しかし、私達はしばしば身体が不完全な装置であると感じている。病や憑依、あるいは老いと いった身体の「不自由」な状態に直面したとき、私達は「自由」を取り戻し、自己を死守しようと あがくのではないか。そうした自己の在り様のすべてを、近代的個人の領域にあるとみなし、 人類学の領域外に追い出すことは、いささか極端であろう。対象・領域を問わず、身体の統御 不可能性に直面した時にこそ、身体‐自己の距離は意識化される。だとすれば、この「意識化」 の過程こそが社会的に条件付けられているのであり、身体によって規定されながら、なおかつ 「健全」な状態を欲求し続ける自己とは何ものか問うための糸口になるのではないか。

「憑依と主体:南インドのブータ祭祀を事例として」

石井美保(一橋大学 社会学研究科 准教授)

【発表要旨】

本発表の目的は、南インドのブータ祭祀を事例として、憑依儀礼における主体性の問題を 考察することである。憑依現象をテーマとする民族誌には、憑依の主体を誰とみなし、現象を 記述する際に誰を主語とするのか、という問題が常につきまとってきた。これは、憑依の 「主体は誰であるのか」という問題であるのみならず、「誰が主体を決定しうるのか」という問題 でもある。超自然的な現象の背後に特定の人間主体の意図を見いだす分析者の視座は、神や 精霊を至高の主体とする当事者自身の見解と矛盾をきたし、憑依の主体を先験的に判断する 分析者の権威を露呈する。 この問題を踏まえた上で、本発表では、主体の決定をめぐる批判的見地とはやや異なる視点から 憑依と主体の問題を考察してみたい。すなわち、主体帰属の決定をめぐるジレンマに留まるの ではなく、あるいは主体という概念の放棄に向かうのでもなく、霊的存在と人、人と人の相互的な 関係において、それぞれの主体性がいかにして生成されているのかを考察することである。 本発表ではまず、ブータの大祭を事例として、人々と神霊の相互的な魅惑と交渉を通して 祭祀における行為と権利、責任の主体が重層的に構成されていく過程を検討する。 このように儀礼の遂行を通して現勢化される主体のあり方を、本発表では「遂行的主体」と呼ぶ。 つぎに、ブータ祭祀にかかわる人々を組織化し、政府に登録することで合法的な祭祀の主体を 創りだそうとするひとつの動きを紹介する。このように組織化と登記によって構築され、現実化される 主体のあり方を、本発表では「登記的主体」と呼ぶ。 本発表では、遂行的主体と登記的主体の様式を可能ならしめている関係性と、これらふたつの主体の 様式の軋轢と抗争、そして部分的な二重化の過程を検討することを通して、ブータ祭祀における 主体生成の特徴を明らかにする。

「老いた人格と老いる自己:年金生活者たちの合宿にみる福祉的身体」

高橋絵里香(日本学術振興会 特別研究員)

【発表要旨】

「老い」を問題とする人類学的研究は、いわゆる「伝統社会」における老人の役割・地位を 賞賛していた70年代から現在に至るまで、同じパラダイムに基づいている。それは、「老い の人格」論に基づく近代批判である。しかしながら、現代の高齢者たちは福祉国家の存在を前提とした生活を送っているのであり、懐古的論調を持ち込むことは無意味である。むしろ、老化という身体的な変化がどのように自己認識され、福祉制度の下で他者と共有されるのか、という点にこそ、老いの現代的様態は紡ぎだされる。 本発表は、フィンランドのある自治体でのフィールドワークに基き、当地における老いと福祉の 相互作用を明らかにすることを目的とする。具体的には、福音ルーテル派教会が催す年金 生活者(≒高齢者)のための夏季合宿を通じ、参加者たちが仲間の中に「老いる自己」を 見出していく過程を紹介する。その過程において表出する「福祉的身体」は、福祉国家の統治 対象である以上に、地域福祉によって単線的に配置される老いの道程が刻み込まれている。 老いの人格とは、むしろ、そうした他者の中の「老いる自己」を予期し、愛着するモメントにおいて 生成していることを証明していきたい。

「サイボーグ論の射程:サイエンス・スタディーズと生命倫理から」

松原洋子(立命館大学 先端総合学術研究科 教授)

【発表要旨】

人工内耳や脳深部療法などのサイボーグ技術の実用化は、「身体―自己」に 「身体―技術」という視角から新たな課題を提示した。これらは生命倫理 ないしは脳神経倫理の問題系に配置され検討されている。主な論点はふたつある。 ひとつは、「人間らしさ」の境界侵犯の是非、もうひとつは「自己」のありかと その処遇である。いずれも「身体―技術」問題を身体に対する技術の行使および そのガバナンスの根拠の検討に引きつけて論じる、応用倫理特有のアプローチに 枠づけられている。同時に身体への技術行使は科学技術政策のイシューでもあり、 サイボーグ技術の倫理は科学技術の公共性という水準も含み込むことになる。 一方、ハラウェイのサイボーグ論やラトゥールのハイブリッド論に代表されるように 身体―自己―技術関係のメタ科学批評も存在する。 本報告ではこれらの議論を検討しながら、ハイブリッドを現実に生きる人々の 現場から立ち上げるサイボーグ倫理の可能性について展望する。